「涙そうそう」にしても、この「手紙」にしても「サッド・ムービー」にしても、どうして予告編でああも涙を流すシーンを多用するのだろうか?「泣きたいなら、この映画をご覧なさい」とでも、いいたいのであろうか?
「手紙」である。差別について、考えさせられる映画である。殺人を犯した兄を持つ弟は、兄の分まで社会的な責任・社会の厳しい目を負わなければならないのであろうか?
自分が犯してもいない犯罪のために差別され、そしてそこから逃げて新しい場所を探す。そしてそこでもまた差別され、新たな場所を求めて去っていく。差別されることへの怒りは消え、あきらめと逃げることで気持ちの安定を求めていく。
どんなに「差別と戦うンや!」と言われても、戦いきれない悲しさ、たった一人の兄への思いが、余計に差別を受ける側の辛さとして伝わってくる。
同和問題についても考えさせられる、「差別」・「人権」について問いかける映画であった。
それだけにラストシーンが、胸を打つのである。小田和正のライブの歌にも誘われて、泣いてしまった。問題は何一つ解決していないのかもしれないけれど、「差別から逃げないまでも、きちんと向かい合っていくのではないか」と思わせるラストシーンが、感動を呼ぶのである。
予想を裏切る、いい映画であった。