めがね

  • このフォーラムに新しいトピックを立てることはできません
  • このフォーラムではゲスト投稿が禁止されています

投稿ツリー


kinsan

通常 めがね

msg# 1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/11/27 17:50
kinsan  長老   投稿数: 276
「かもめ食堂」とほぼ同じキャストとスタッフで作られた映画です。
「かもめ食堂」は、海外での自分探し的な要素を含んでいました。海外で自分の位置を見つけることの難しさを、暖かいまなざしで見つめながら、素敵な結末を用意してくれました。


お話は、都会で作家をやっていると思われる女性が主人公です。
主人公は「携帯のつながらない場所(それが自由ととらえるのもおかしな話ですが)」求めて、島にやってきます。やってきた島の民宿には、民宿の主人と高校の生物の女教師、そして春になるとやってくる客(?)で正体不明のサクラさんがいます。
この3人とのやりとりや生活を通して、主人公は「たそがれる」事の素晴らしさを知り、自分なりの自由をつかむというお話です。

実は映画を見終わった後、ものすごい違和感をもってしまいました。自由というものは、本人が不自由と思わない限り自由なのでしょう。その限りでは、主人公は携帯から離れた自由をつかむことに成功します。しかし「たそがれる」不自由さを手にしてしまいます。主人公は、それが不自由であることには、気がつきません。なぜなら「たそがれる」こと自体に、なんの疑問も持たないからです。
この映画を見て、宗教に染まっていく人の歩みを見ているような気がしました。なんの関心も無かった人が、イヤ反発さえを覚えていた人間が、困っているところをサクラさんに助けられ、しかもその助けられたことを周りからうらやましがられているうちに、気持ちが変化していく。嫌いなはずだったかき氷、でもサクラさんの作ってくれたかき氷を食べた瞬間、何かが変わったのを感じてしまう。そして「たそがれ」に浸っていく。
ラストシーン、主人公が送った赤いマフラーを身につけたサクラさんをみんなでが迎えるところは、聖書にでも出てくるような極めて象徴的なシーンでした。

「かもめ食堂」が外に何かを求めながら自己実現を目指していました。「めがね」は極めて身内的な小さいサークル内でのどちらかといえば分かる人だけを受け入れる、そんな中での自由を求めているような気がしました。

誤解を恐れずにいえば、サクラさんを教祖とする「たそがれ教」に、主人公が入信するまでの過程を描いた作品だと思います。

  条件検索へ

サイト内検索

ログイン

ユーザ名:

パスワード:



パスワード紛失

新規登録